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リヨンの歴史

リヨンには2000年の歴史があります。

ガロ・ロマン時代

 

かつてリヨンには、ローヌ ・ソーヌ 2つの川岸に、フルヴィエールと

クロワ・ルースの 2つの丘を取り囲むように作られたケルト人の集落があり、

「コンダット」と呼ばれていました。

 

そこへ紀元前43年、ルキウス・ムナティウス・プランクスの指揮下ローマ人が侵攻、

フルヴィエールを治め、この地域はローマの属州となりました。

この時新たに付けられた名は“Lugdunum”(ルグデュヌム)。

“Lug”は太陽の神、“dunum”が丘または砦 という意味です。

 

紀元前1世紀、時のローマ皇帝アウグストュスは、ガリア人をリヨン、ベルギー、アキテーヌの

3つの属州に分け、リヨンをその首府と定めます。

その後リヨンは、3世紀にわたり、行政・経済・軍事・宗教面で大変豊かな街となりました。

しかし3世紀の終り、ローマ帝国の繁栄が終焉を迎えると、属州であるルグデュヌムもまた命運を共にしたのです。

中世

 

ローマ時代の興亡を経て、中世へとその歩みを進めたリヨンは、

キリスト教の影響下、現在のヴュー・リヨンにあたるサン・ジャン大教会、

サン・ジョルジュ教会、サン・ポール教会界隈を中心に形成されていきます。

 

4世紀まで異端とされていたキリスト教ですが、11世紀になるとリヨンは

ガリア首座大司教座という地位を得、教会が街を統治していきます。

商業も活発化して行き、街には大変活気がありました。

しかしこういった商業発達に伴い、それまで教会権威に従っていたブルジョワ階級、

手工業者、銀行家、商人が自治を求めるようになり、教会側は王に助言を求めた結果、

王はこの機会をうまく利用し、リヨンを王国の支配下に入れることに成功。

こうして1320年、リヨンはフランスの1地方都市として、12名の市参事官によって統制されるようになります。

 

しかし中世も終りに近づいた頃には、百年戦争の勃発とヨーロッパに蔓延した黒死病によって

リヨンは疲弊しきっていました。

ルネッサンス

 

ルネッサンスは戦禍と疫病によって勢いを失っていたリヨンに、

再び輝きと興隆をもたらし、この街を交易と美術の街へと発展させたのでした。

 

地理的好条件により、商業の街となったリヨンには、

ヨーロッパ各地から商人が集まってくるようになりました。

1536年に、時の王フランソワ1世がリヨンに特許状を授けたことに発し、

絹織物の街リヨンが誕生、経済的に豊かになっていきます。

イタリアからも富豪たちが移住、独特な建物を造るようになり、次第にこの街にはルネッサンス色が

加えられていきました。

 

1476年にはフランス初の書物が印刷され、リヨンは経済面だけでなく文化面でも繁栄していきます。

 

しかしこの美しきルネッサンス時代も、再び勃発した暴動や戦争によって引き裂かれ、リヨンは大量虐殺や

市民紛争の舞台となりました。

17~18世紀

 

17~18世紀は、リヨンにとって大きな発展の時代でした。

絹織物でフランス全土に知られていたその頃のリヨンは、政治・経済的中心地を

北プレスキルとして栄えていました。

 

爆発的に人口が増加したため多くの建築家によって、街は建築、拡大されていきました。

経済的には、この当時発展の一途を辿っていた絹織物業にリヨンの民の半数以上が頼っていました。

リヨンの絹織物技術の評判は国境を越え、海外からの受注も増えていき、絹織物は忽ちリヨンの

経済軸となっていきます。

 

しかしやがて訪れるフランス革命の影響を受け、リヨンは経済活動の勢いを失っていきます。

フランス革命は、多くの人々が命を落とし街も破壊されるという、血塗られた暗黒時代としてリヨン史に刻まれています。

19~20世紀初頭

 

ナポレオン1世は、かの劇的なフランス革命の後、この街の再建に努めます。

 

まず手始めにベルクール広場の修復、絹織物業の建て直しによる経済復興を図りました。

また産業革命時代を迎えたリヨンでは、絹織物産業はジャカード織機の発明により、

飛躍的に発展しフランス経済をも支え、国内外にその名を知られるまでに至ります。

 

しかしこの時代のカニュ(絹織工)の仕事環境は大変苛酷であったため、

1831年と1834年に大規模な暴動が勃発。それと同時期にギニョールが誕生しました。

 

またサン・テチエンに鉱山で採掘される鉄鋼から機械産業や自動車産業も発達し、

リヨン経済を支えるようになりました。

 

建設ラッシュの到来によって街は色づけられていきます。

橋を架けることにより、街の拡大につながり、次第に都市建築も進んでいきました。

バルタールやスフロなどの優れた建築家がローヌ川沿いに並ぶ、裁判所、パレ・ド・ラ・ブルス、

県庁、大学などが次々と建てられていき、街は次第に色づけられていきます。

 

リヨンの建築家ピエール・ボッサンによるフルヴィエール大聖堂の建立を始められたのは1870年。

そして1896年に完成しました。

近代

 

20世紀のリヨンは強大な経済力を有し、外に向かって大きく成長していきました。

しかしまず世界大戦により、リヨンも甚大な被害を受けます。

 

終戦後中断されていた都市整備計画が再開されます。

リヨン人口が徐々に増加するにともなって、幹線道路と公共交通機関の不足という

交通問題が浮き彫りになり、エドゥアール・エリオはまずクロワ・ルースの

トンネル開通工事と南北を結ぶ幹線道路の工事に着手しました。

エリオを継いだルイ・プラデルも、パリ・マルセイユ間の高速道路工事、そしてメトロ建設計画を進めます。

リヨンに最初のメトロが開通したのは、1978年のことです。

 

1975年にはリヨン・サトラス空港が作られ、その後2000年にはサン=テグジュペリ空港として新しい命を吹き込まれ、

毎日29本の国内便と46本の国際便、16本のチャーター機が発着陸する国際プラットフォームとして、

多くの人に活用されています。

 

1980年、TGV ( Train à Grande Vitesse高速列車) の駅が、リヨンに作られました。

そして今日のリヨンには、TGVの停車駅がサン=テグジュペリ空港、

パール・デュー、ぺラーシュの3カ所にあり、ヨーロッパの都市とリヨンを結んでいます。

 

1969年、リヨン周辺54市から成る「リヨン都市圏」を形成し、ヨーロッパの主要都市の中にその名を連ねられます。

こうしてフランス第2の街リヨンは、ヨーロッパにおいても国際文化都市としての成長を続けているのです。

今日から明日へ

 

国際主要都市として成長を遂げたリヨンは、明日への更なる発展のために、

継続可能な発展を念頭に入れた、数々の都市プロジェクトを推し進めています。

 

まず歴史的建造物を包括する世界遺産に登録された街区と、

モダンなデザインの建築物が共存する街づくりに取り組んでいます。

 

ローヌ・ソーヌ川の合流点に展開されつつある、コンフリューエンスプロジェクトでは、

2015年までに博物館、住宅施設、アーバンレジャーを楽しめる空間を作り、新しい街区の形成を目指しています。

 

また住環境と経済活動とを融合させながら、自然と都市の調和のとれた環境作りをすることで、

人々の生活の質の向上を計る試みをしています。

街の景観を変えたローヌ川左岸の整備では、ジェルラン公園からテット・ドール公園まで、

環境に優しい継続可能な交通で行くことができるようになりました。

 

リヨンの空の玄関、サン=テグジュペリ国際空港は、ターミナルを拡大することで飛行機の発着便数を増やし、

高級ホテル、会議場、地下駐車場を完備した空港は、洗練されたサービスを兼ね備えた、

フランス南東地域最大の空港になることを目指して、更なる進化を続けていきます。

 

1995年より、リヨンはシテ・アンテルナショナルを総合施設にすることによって、ヨーロッパ内で

ビジネス観光中心地の1つとなることを目標としてきました。このコンベンション・センターの拡大によって、

収容人数、開放性やフレキシビリティーに幅が出てきました。

 

このように豊かな歴史、文化を大切にしながら、リヨンはこれからも人々の住みやすい都市づくりを目指していきます。

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